岐阜高山教区第7組

岐阜高山教区第7組の寺院

圓應寺
羽島市下中町加賀野井540-1
延徳二年(1490)3月、圓教創建。元天台宗延暦寺末で西光坊と称していたが、真宗に転じて圓應寺と改めた。
初代住職を慈教と称した。寺号及び宣如上人(本願寺第十六代)絵像下附は寛文七年(1667)11月29日。
木仏の下附は寛文十一年(1671)10月28日。濃陽徇行記によれば、除地一反六畝廿歩とある。
寺の本尊「方便法身の尊像」は、室町末期の作仏丈一尺五寸の木像で、当寺の初代から寺宝とされている
(昭和35年(1961)羽島市文化財に指定)。
また、門前にあるムクロジは、樹高30mの大木で、これも羽島市の天然記念物に指定されている。

光福寺
羽島市下中町城屋敷606
往古は、天台宗で心蔵坊と称した。開基は船橋新九郎が出家して、応永(1394〜)のころ建立したものと伝える。
加賀野井城主加賀野井弥八の帰依厚く、文明七年(1475)四代の住僧・良弁の時、河合姓を名乗る。
天正年間(1573〜)加賀野井古屋鋪から、現在の処に移った。
太平洋戦争に供出された鐘銘に、文政八年(1825)正月光福寺願主法城とあった。

興雲寺
羽島市下中町市之枝408
元和元年(1615)宗円の創建。寺伝には寛政元年(1460)9月の創建で、往古は天台宗であったが、住僧・蓮心が親鸞聖人に帰依し、文明二年(1470)真宗に転じたとある。濃陽徇行記に「櫟江天神社地ト興雲寺境内ハ共に前々除ナリ」とある。
太平洋戦争に供出された鐘銘に、享保十年(1725)仲冬市野枝村興雲寺誓可冶工江州栗太郡高野庄辻村住太田半左衛門尉藤原家次とあった。

願照寺
羽島市下中町石田252
弘法大師の同母弟真言宗の僧、真雅が貞観十三年(871)3月、一宇を創建して願照寺と号した。
永正二年(1505)俗名長岡氏の時、了善と号し、本願寺第八代蓮如上人に帰依して真宗となる。
御開山絵像下附は寛文三年(1663)2月25日である。
境内の俳聖・芭蕉、獅子門第十九世一味庵石田宗匠、翠竹園双雀などの句碑は句碑群として、羽島市の文化財に指定されている。
太平洋戦争に供出された鐘銘に、明和二年(1765)季春中島郡石田邑願照寺普恩御鋳物師岡本太郎右衛間尉藤原貞次とあった。

正専寺
羽島市下中町石田813
元天台九ヶ寺の本坊実悟院竹山晶泉寺と号し、尾張国葉栗郡黒田に建置、その後、前渡、伏見、中野などに転々とし、それぞれ分寺を残して貞治元年(1362)現地に移転、本願寺第六代功如上人に帰依して正専寺と改めた。

善敬寺
羽島市桑原町八神4358
永正五年(1508)3月の創立。開基は学元(俗名桑原助兵衛)。
本願寺第九代実如法主の法弟となり、六字名号並びに阿弥陀如来絵像一幅を受け、堂宇を建設した。
当寺の梵鐘は太平洋戦争時の供出を免れ、羽島市文化財に指定されている。
太平洋戦争に供出された半鐘銘に、文政二年(1819)3月善敬寺冶工岡本太右衛間定継とあった。

珉徳寺
羽島市桑原町八神2253
寛政五年(1464)3月創建。往古は真言宗で、道恩が本願寺第八代蓮如上人に帰依し、六字名号を受けて真宗に転じた。
蓬州旧勝録に八畝歩毛利治部左衛門尉附置とある。
同寺内には桑原保育園が併設され、住職が園長を兼務している。

珉徳寺蓮如上人御忌
本寺の蓮如上人像は、約50センチの塗りのしていない木仏で、毎年3月25日御正当(命日)(現在は新暦)に法要が営まれ、この法要中は大変な賑わいで、明治末年から流行した「のぞきからくり」はもちろん、村芝居、金魚すくい、菓子屋、植木屋など相当広い境内を埋めつくし、付近の道路も屋台が軒を並べ、近隣の人々はもちろん、他村へ嫁入りした娘たちも皆帰郷、各家では接待に大わらわの状況で、現在もなお人出が多い。
里伝によれば、この尊像は明治維新前に、本堂の屋根の上にあるのを、参詣した八神の山北不二衛という人が見つけ、付近の人々を呼び集めて降ろし、協議の結果、名古屋御坊所へ引き上げ、調査したが判明しなかったので、本寺に戻されたものであるという。

眞福寺
羽島市桑原町前野字江西1095
天正十八年(1590)黒田家の末葉の者が道場を建立し、正保元年(1644)出家得度して、東本願寺第十二代教如上人の法弟となり、法名を覚伝と改め開基となった。延宝五年(1677)阿弥陀如来像一体並びに寺号を下附せられた。
当寺の山門は、毛利侯の門を移築したもので、屋根は修理を施してあるが、当時のままの姿を今に留めている。
また当寺所有の「紙本金屏風」六枚折は、羽島市の文化財に指定されている。

東光寺
羽島市桑原町大須1-80
文明二年(1470)開基正善が八神村に一宇を創立し、真宗を奉じた。
延宝八年(1680)大須村西川田に易地、延宝九年(1681)7月26日寺号を下附せられた。
明治三十八年(1905)末、河川改修につき仮移転し、大正元年(1912)1月、現在の地に移り、本堂並びに諸建物を新営した。

正明寺
羽島市桑原町東方340
長享三年(1489)6月、本願寺第九代宣如上人の法子、釋了道の開基。寺号、木仏下附は明暦二年(1656)8月28日。
太平洋戦争に供出された鐘銘に、天明五年(1785)9月29日東方村正明寺釈了因御鋳物師岡本太郎右衛間尉藤原貞次とあった。

寺宝(寺伝)
寛政元年(1789)東方氏神境内、榎の大木の根元から次の出土品があった。
1. 釈迦如来像(金銅仏)
2. 観世音菩薩像(金銅仏)
3. 薬師如来像(石仏)
4. 燕形金銅製品、鉄、銅などの焼きがら
里伝によれば、当時毎夜のごとく、氏神境内、榎の根本で不思議な音が聞こえるので、村人は不思議に思っていた。その榎が風もないのに倒れた。根堀の時、前記の出土品があったので、領主成瀬氏に申し出たが、本寺に下渡され、現在に至っている。太平洋戦争前、桑原村長並びに住職は、県庁に職員を訪問し、鑑定を依頼した結果、
1. 釈迦如来像、観世音菩薩像は鎌倉時代の作で
2. 薬師如来石像は渡来仏であろうとのこであった。

寺宝蓮如上人筆六字名号
荒ムシロの上で執筆されたことは、文字にその証を見ることができる。伝説に、元竹鼻町板倉家に伝わっていたが、住職、同行が数人同じ夢を見たので、当寺に貰い受けたと伝えられている。

蓮行寺
羽島市桑原町上中町午北491
元和八年(1622)7月、東本願寺第十三代宣如上人の法子、了教の創建。
寺号及び木仏の下附は、寛文六年(1666)3月26日。宣如上人の絵像下附は、延宝三年(1675)4月10日。
嘉永六年(1853)正月7日、火災により本堂、庫裡、鐘堂を灰燼に帰したが、幸いにして本尊だけは難を逃れた。
太平洋戦争に供出された鐘銘に、宝暦九年(1759)10月24日中島郡午北新田蓮行寺智円冶工岡本太郎右衛門尉藤原貞次とあった。